| 和 暦 | 
西 暦 | 
年 齢 | 
事      項 | 
| 明治16年 | 
1883年 | 
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- 2月8日(旧暦元旦)岡山県上房郡高梁町(現高梁市)に清水質(ただし)とスエの長男として生まれる。本名は秀(ヒデ)
 
- 後に弟郁(いく)、妹章子(ゆきこ)、次弟浩(こう 後の三渓)が生まれる。
 
 
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| 30年 | 
1897年 | 
15歳 | 
- 尋常小学校(4年)、高等小学校(4年)を経て高梁中学入学(5年)。
 
- 同年父質死去。比庵は遠縁の福西家に書生となって住み朝早くから働きながら通学した。
 
 
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| 35年 | 
1902年 | 
20歳 | 
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| 38年 | 
1905年 | 
23歳 | 
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| 41年 | 
1907年 | 
26歳 | 
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| 42年 | 
1908年 | 
27歳 | 
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| 43年 | 
1909年 | 
28歳 | 
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| 45年 | 
1912年 | 
30歳 | 
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| 大正2年 | 
1913年 | 
31歳 | 
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| 3年 | 
1914年 | 
32歳 | 
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| 5年 | 
1916年 | 
34歳 | 
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| 6年 | 
1917年 | 
35歳 | 
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| 7年 | 
1918年 | 
36歳 | 
- 古河銀行大阪船場支店支店長となり、神戸に近い魚崎(現神戸市)に住む。
 
- 早朝散歩・スケッチ・洋画家松原三五郎に人体デッサンを習う、妻は三味線けいこ、…平和な日々を送る。
 
 
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| 11年 | 
1922年 | 
40歳 | 
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| 12年 | 
1923年 | 
41歳 | 
- 東京転勤の予定が関東大震災のため妹章子のいる岡山県笠岡町(現笠岡市)に一時寄寓、
 娘は神戸女学院寄宿舎に入り別居。 
 
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| 13年 | 
1924年 | 
42歳 | 
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| 14年 | 
1925年 | 
43歳 | 
- 母スエが逗子の弟郁の家で亡くなる。63歳(笠岡に独居していたが体調を崩し、家が広い郁の家に移っていた。)
 
 
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| 昭和2年 | 
1927年 | 
45歳 | 
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| 3年 | 
1928年 | 
46歳 | 
- 栃木県日光町(現日光市)の古河電工日光精銅所会計課長として単身赴任。
 
- 7月 処女歌集「夕暮れ」をヒ舟の号で刊行、日光町で「二荒短歌会」を主宰。
 
 
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| 4年 | 
1929年 | 
47歳 | 
- 5月 合同歌集「赤薙」を発行。
 
- 10月 短歌誌「二荒」を主宰、発行。
 
- 11月 古河電機工業を早期退職し横浜の自宅に戻る。
 
- 弟郁の紹介で志賀尚を婿養子として迎え、娘明子と結婚。
 
 
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| 5年 | 
1930年 | 
48歳 | 
- 3月 娘夫婦に長男(比庵の初孫)誕生。以後合計5人の孫ができる。
 
- 7月 日光町の要請で町長に就任し、山内唯心院に独居。観光課設置、スケートリンク新設、
 有名人の招待等観光開発の基礎を作る。 
 
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| 7年 | 
1932年 | 
50歳 | 
- このころ中河與一/幹子夫妻や日光町出身の日本画家小杉放菴と知り合う。放菴が短歌誌「二荒」の表紙絵を担当。
 
 
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| 8年 | 
1933年 | 
51歳 | 
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| 10年 | 
1935年 | 
53歳 | 
- 6月 「慈悲心鳥を聴く会」を主宰し、
 中禅寺湖に萩原朔太郎、岡本一平/かの子夫妻、中川與一/幹子夫妻、若山喜志子、保田與重郎 などを招く。 
- 号を「ヒ舟」から比庵に改名。
 
 
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| 11年 | 
1936年 | 
54歳 | 
- 娘婿尚の務め先の関係で千葉県市川市に自宅を移す。(借家)
 
 
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| 14年 | 
1939年 | 
57歳 | 
- 5月 日光町長を辞任。10月に市川市の自宅に戻り、これからの人生を歌・書・画の道に進むと決意。
 
- 短歌誌「二荒」は石川暮人主催の「下野」(しもつけ)短歌」と合併し、以後「下野短歌」の名前とする。
 
 
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| 17年 | 
1942年 | 
60歳 | 
- 10月 妻鶴代が亡くなる。比庵は悲嘆にくれたが、弟妹等のサポートもありこれをバネに藝術活動に邁進する事を決意。
 
- 12月 弟三渓の紹介で知り合い歌の道で懇意になった日本画家川合玉堂の賛助を受け、
 三渓と兄弟作品展の会「野水会(やすいかい)」を創設、第一回展を 東京銀座紀伊国屋書店」画廊で開催。 この作品展は玉堂逝去の昭和32年まで15回続いた。(昭和19年のみ非開催) 
 
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| 18年 | 
1943年 | 
61歳 | 
- 娘婿尚が応召される。高年齢(40歳)のため国内勤務。
 
 
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| 19年 | 
1944年 | 
62歳 | 
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| 20年 | 
1945年 | 
63歳 | 
- 1月 戦禍を避けて妹章子の住む岡山県笠岡町(現笠岡市)に疎開。
 
- 6月 戦禍が笠岡にも及ぶことを懸念して片田舎の小田郡吉田村(現笠岡市に合併)に再疎開。
 丘の上の離れ屋で水、電気なしの生活。唯一の楽しみは玉堂 との書簡交換。 
- 8月 終戦、12月に笠岡に戻る。
 
 
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| 21年 | 
1946年 | 
64歳 | 
- 4月 「下野短歌」復刊。以後随筆「笠岡だより」を毎月寄稿。
 (東京駒込転居後は「駒込だより」として死去する昭和50年まで続けた。) 
- 笠岡の女学校で歌の指導を担当(東京転居の昭和22年12月まで継続)。
 地元の歌好きな女性グループと短歌会(鈴音会)を作成。 
 
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| 22年 | 
1947年 | 
65歳 | 
- 12月 疎開生活を終えて東京都豊島区駒込に娘夫婦・孫達と同居。
 昭和34年にこの家を建直し、93歳で他界するまで2階の書斎で創作に没頭した。 
 
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| 23年 | 
1948年 | 
66歳 | 
- 笠岡の妹章子が死去する昭和40年までは夏から秋の数か月笠岡の妹別宅に宿泊して、
 ふるさと岡山県を中心に芸術活動をした。 
- 駒込に居る時は奥多摩御嶽(みたけ)の川合玉堂の庵を弟三渓と一緒に月一回訪ね、
 これは玉堂が亡くなる直前(昭和32年)まで続いた。 
- 玉堂は比庵の訪問を喜び、他の訪問客を断り比庵の歌に玉堂が画を讃ずるなどで楽しんだ。
 
 
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| 27年 | 
1952年 | 
70歳 | 
- 書斎にあった市川市出身の南画家吉田浩堂の墨竹図の二曲一隻の屏風に大石を配し
 これに正月毎に雀を一羽描き加える事を始めた。これは比庵が他界する昭和50年まで続き、 雀の数は24羽になった。比庵の正月雀として有名になった。 
 
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| 28年 | 
1953年 | 
71歳 | 
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| 29年 | 
1954年 | 
72歳 | 
- 3月 週刊朝日春季増刊号に川合玉堂の「我が母の記」が掲載され、比庵が挿絵(3点)を担当した。
 
 
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| 30年 | 
1955年 | 
73歳 | 
- 6月 岡山大学教授大本琢寿の彫りおよび刷りによる比庵自筆歌集「窓日(そうじつ)」が刊行された。
 
 
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| 32年 | 
1957年 | 
75歳 | 
- 6月 川合玉堂逝去。「野水会」はこの年の「川合玉堂追悼展」を以て最後となった。
 
 
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| 33年 | 
1958年 | 
76歳 | 
- 1月 試筆に「くれなゐの絵具を多く持ちてあり くれなゐをもて老いをえがくと」と詠み、
 老いの若さをくれなゐに描くことを表明した。 
- 1月 自筆歌集「窓日第二」(大本琢寿彫刷)が刊行された。
 
- 10月 日光東照宮機関紙「第日光」(年2回発行)の表紙絵を担当。以後亡くなる昭和50年前半まで33回連続で担当。
 
- 11月 日光町が日光市に昇格したのに伴って制定された最初の名誉市民に徳川家正、小杉放菴とともに推挙された。
 
 
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| 34年 | 
1959年 | 
77歳 | 
- 名誉市民を祝って日光市公会堂前に最初の歌碑が建立された(後に二荒神社境内に移設)。
 歌碑建設資金に応募してくれた方へのお礼として、日光で詠んだ歌22首をまとめた自筆歌集「有山抄」を作成して贈った。
 - 亡妻の故郷有漢(現高梁市)にある亡妻の実家笹田家の菩提寺宝妙寺に岡山地方最初の歌碑を建立。
 
- 笠岡、岡山、福山などで毎年比庵展が開催されるようになり、各地に比庵会が発足した。
 
 
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| 37年 | 
1962年 | 
80歳 | 
- 1月 尾道の洋画家小林和作の勧めで松の大木(老松)を描き始める。これが好評で以後老松を多く描いている。
 
- 1月 桑田笹舟主催の「一楽書芸院」が書画集「比庵」を刊行。
 
- 10月 笠岡比庵会により笠岡古城山公園(城山公園)に直書の歌碑が建立された。
 
- 邦楽家今藤長十郎の勧めで四季折々の富士山を描き始める。これが比庵富士として有名になった。
 
 
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| 38年 | 
1963年 | 
81歳 | 
- 4月 比庵作品を原図とする矢部犀洲の木彫漆芸作品に比庵が「窓日彫(ソウジツボリ)と命名。
 窓日彫は比庵作品の一つとしてファン から愛好された。 
- 9月 第二回有山会展を三越本店で開く。
 
 
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| 39年 | 
1964年 | 
82歳 | 
- 4月 逗子に住む上の弟郁が亡くなる。故郷笠岡威徳寺清水家墓地に埋葬、墓石は比庵が書いた。
 
 
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| 40年 | 
1965年 | 
83歳 | 
- 8月 笠岡の妹岡本章子が亡くなる。分骨して威徳寺の清水家墓地に墓を作り墓碑に比庵の挽歌を彫った。
 
- 11月 第三回有山会展を三越本店で開く。
 
- 12月 銀座吉井画廊で作品展を開く。
 
 
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| 41年 | 
1966年 | 
84歳 | 
- 1月 宮中歌会始の儀に召人となる。御題は「声」、
 詠進歌は「ほのぼのと むらさき匂ふ 朝ぼらけ うぐひすの声 山より聞こゆ」 
- 11月 東京学芸大学の全国大学書道学会で「書の歩み」と題して講演。12月 作品展を銀座吉井画廊で開く。
 
 
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| 42年 | 
1967年 | 
85歳 | 
- 4月 東京銀座松屋で「書と画 比庵三渓兄妹展」を開催。以後比庵没年(昭和50年)までほとんど毎年開催。
 
- 4月 書道研精会より書画集「清水比庵集」刊行。
 
- 12月 書道研精会からこの年の作品を集めた「八十五比庵」発行。以後毎年「九十二比庵」まで続ける。
 
 
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| 43年 | 
1968年 | 
86歳 | 
- 1月 歌誌「下野短歌」は全国的発展に伴い「窓日(そうじつ)」と改題し、比庵は主筆となる。
 第四回有山会展を三越本店で開く。 
- 7月 イイノホールの創作邦楽研究会主催「第七回創作邦楽の展示」に
 「歌曲雪月花 作詞清水比庵、作曲今藤長十郎、清元梅吉」が出る。 
- 9月 求龍堂より「比庵歌・書・画」を発行。
 
- 10月 岡山県高梁市の臥牛山鞴峠(松山城に登る道筋)に直書歌碑建立。
 
 
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| 44年 | 
1969年 | 
87歳 | 
- 2月 求龍堂より随筆「紅(くれなゐ)をもて」を発行。
 
- 3月 比庵作の「雪月花」三首の短歌による新作舞踊がNHKで放映。
 
- 4月 週刊朝日に「今良寛清水比庵86歳の青春」の記事が出て、これより“今良寛”“昭和の良寛”と呼ばれるようになった。
 
 
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| 45年 | 
1970年 | 
88歳 | 
- 4月 比庵の米寿を記念し弟三渓が「野水帖 比庵歌・書・画」を刊行。米寿比庵展を東京、広島、大阪、名古屋で開催。
 
- 11月 岡山美術館(現林原美術館)で「清水比庵米寿記念書画展」が開かれた。
 
 
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| 46年 | 
1971年 | 
89歳 | 
- 9月 郷里岡山県高梁市が比庵を名誉市民に推挙。その記念歌碑を高梁市松連寺に建立。
 
 
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| 47年 | 
1972年 | 
90歳 | 
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| 48年 | 
1973年 | 
91歳 | 
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| 49年 | 
1974年 | 
92歳 | 
- 奥多摩御嶽にある川合玉堂美術館入口に玉堂を称える歌碑建立。
 
- 10月 窓日短歌会創立45周年の記念として東京調布市深大寺に直書の歌碑を建立。これが生前建立の最後となった。
 
 
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| 50年 | 
1975年 | 
93歳 | 
- 2月 日本短歌雑誌連盟から有料歌誌として窓日短歌会が表装され表彰式に出席。これが比庵最後の晴れ舞台となった。
 
- 5月より体調を崩し病臥、その後胆嚢炎等を併発し10月24日他界。
 10月30日駒込の泰宗寺で仮葬、11月7日清水家の菩提寺笠岡威徳寺で本葬。戒名は清光院殿比庵禅徹大居士。 
 
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