比庵の生涯
清水比庵 略歴(1883年~1975年、明治16年~昭和50年)
生まれから学生時代
清水比庵(本名 秀:ひで)は1883年(明治16年)に岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市弓之町)で生まれる。
高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)、京都帝国大学(現・京都大学)へと苦心して進学。
若い時から歌の道にあこがれた比庵は、大学在学中から絵手紙を書いていた。四季折々の絵に和歌や俳句を添えて、日課の如く知人・友人に送っている。その数は膨大で、この時期に絵手紙を書き続けたことが後の比庵芸術の基礎となる。
会社員を経て日光町長へ
大学卒業後、司法官になるが、健康上の理由で実業界に転職する。(安田銀行→古河銀行→古河電工)民間企業最後の職場となる、古河電工日光工場勤務の頃から歌の道で頭角を表しており、比庵自身は47歳で早期退職して歌の道に進むつもりでいた。
しかし日光町(現在の栃木県日光市)から町長就任を嘱望され、歌を続けることを前提に承諾。昭和5年(48歳)から 昭和14年(57歳)まで日光町長に就任する歌人町長として評判となった。
また、日光町に観光課を新設したり、スケートリンクを作ったりと行政面でも実績を残し、その功績により、昭和33年(77歳)、日光町が市に昇格した際に、徳川宗家の徳川家正、地元出身の画家・小杉放菴とともに、初代日光市名誉市民に推挙された。
本格的な芸術活動の始動
1942年(昭和17年)比庵が60歳の時、糟糠の妻鶴代に先立たれるが、その悲運をバネに芸術活動をすすめ、折しも、歌の道で懇意になった日本画家の巨匠・川合玉堂の賛助を得て、比庵の弟・三渓と創立した「野水会(やすいかい)」の名前で作品展を開催した。
これが大好評で、玉堂が亡くなる1957年(昭和32年)まで毎年開催。これにより比庵の名が世に広く知られるようになった。
歌・書・画の三位一体の芸術を進め、1962年(昭和37年)に80歳を迎えた比庵は「毎日佳境」をモットーとして創作活動を高め、晩年は自由闊達、且つ温かみのある作品を作り、歌・書・画ファンを魅了している。
晩年 ― 「今良寛」清水比庵 ―
組織に属することが苦手だった比庵だが、1966年(昭和41年)84歳の時、宮中歌会始の召人に選出され、1971年(昭和46年)89歳の頃には生まれ故郷の岡山県高梁市の名誉市民に推挙されている。
1975年(昭和50年)93歳の長寿を保って他界した。
晩年は「今良寛」と呼ばれ、作品だけでなくその包容力のある人柄も多くの同世代の人に愛されたが、今日でもその人気は引き継がれ、毎年日本の何処かで作品展が開催されている。絵手紙の元祖としてもファンが多い。